Study > 手話言語研究

ろう者は言語的少数者か

最近ではドラマなどで手話が使われる機会が増えているようです.また,自治体などでのサークル活動や小・中学校での総合学習などで取り入れられることもあるようで,良くも悪くも手話が大衆化してきている,といえるでしょう.言い換えるなら,入り口が広くなってアクセスがしやすくなったけれど,それゆえに手話のイメージだけが 先行してしまいがち.もう少し言うと,そのイメージは実際のろう者や手話とはあまり関係ない,恣意的なもののように見えます.ほとんどの人にとって手話は「耳のきこえない人のことば」のままだろうし,ろう者と接触したことのある人もそれほどたくさんいるわけではないだろうと思います.

「ろう者とは言語的少数者である」と定義されますが,現状この定義はまだ充分に認知されているとは言えないのではないかと思われます.社会的認知だけでなく,制度の面でも課題は山積しているのですが,だからこそ研究をする必要があるのは言うまでもありません.ただし,課題に応えていくために「本当のろう者を知らなければならない」,「ろう文化とは何かが問われなければならない」 といった本質主義的にろう文化の中心へ向かおうとする態度は,射程の狭いものになってしまうような, またおそらくはみずからが目指した問いすら見失ってしまうような気がします.むしろ,私たちが向かうべきなのは,ろう文化の周縁ではないかと思っています.(03/07/04)

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会話を記述する

手話会話の分析とはいっても,分析するにも提示するにも,まず記述の方法について考える必要があります.このときに気をつけたいのは,発話をそのまま記述することではなく相互行為を記述するということ.言い換えると,プロダクトではなくプロセスの分析ができるようなものである必要があるということです.これに関しては,手話会話を記述するということにイメージがわかない人がいるかもしれません.あるいはプロダクトの記述がしっかりとなされなければプロセスなど捉えられない, という批判があるかもしれません.ここではそのことについて書いていこうと思います.

まず,すでに述べたように,目指しているのはプロセスの記述です.私の考える「手話会話を記述する」というのは手や腕や頭の動きを記述するということではありません.例えば,

右手を,握った左手をなでるように動かす

という記述は単語「愛する」の辞書的な記述ではあるかもしれませんが,このような記述では 「私はあなたを愛しています」という一文が,とんでもない長さに膨れ上がってしまうし,西阪(2001)のことばを借りれば,非常にグロテスクな記述になってしまうように思います (1).やはり,私たちが「愛する」を見る・認識するときは それを手の開きであったり,位置Aから位置Bへの移動の連続としてみているわけではなくて,まさしく「愛する」として見て・認識しているはずです.

では,手話会話の記述にはどんな記述の仕方が向いているのかというと,「愛する」という言葉を例にすると記述するのは

「私はあなたを愛しています」=「PT1 - 愛する - PT2」,「PT1 - PT2 - 愛する」

などでいいのではないかと思います. 一見したところ手や腕や頭の動きが組み合わさって何かの意味を成していて,それをお互いに表示しあうことで会話が進んでいくけれども,結局のところそれは記号のやりとりです.もちろん他にも視線だったり動きの大きさだったり,いろいろな要素があるんですが,そういった要素を いちいち細かく書いていくよりは,必要に応じて書き込んでいくほうが記述には適当ではないかと思うわけです.

次に,プロダクトとプロセスについて.「ろう文化宣言」への批判でも触れましたが,手話が言語であることと,コミュニケーション手段たりうることとは別のことだと思います.手話の文法や音韻の体系などを完璧に習得していたら問題なくコミュニケーションができるか, というと必ずしもそうとは言い切れません.言語操作能力に長けていても実際にコミュニケーションをする場合に問題が起こることがあります.逆に,それほど操作能力に長けていなくても,コミュニケーションにはあまり問題がない場合もありえます.つまり,操作能力はコミュニケーションをする上で当然必要とされるものではあるけれど,それ以外にもコミュニケーションで必要になるものがある可能性があるということです.言語管理理論(2)ではコミュニケーションの参加者たちが 不適切さ(Inadequacy)をどう扱っているか,という視点から文法だけではないコミュニケーション上の問題を 扱おうとしています.手話でも当然文法だけではない問題というのがあるはずで,そこに踏み込んで 研究ができたら今よりももっとたくさんのことがわかってくるのではないでしょうか.(03/07/05)

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研究会報告 その1

2003/07/26,27と研究会に参加してきました.情報工学系の研究会でした. 参考になることがとても多くて面白かったです.

その1では,26日のことについて書こうと思います.26日は手話会話のデータを収録したんですが, ちょっとした実験をしまして,手に靴下をはめた状態で会話してもらったものと 頭がすっぽり隠れるマスクをかぶった状態で会話してもらったものとのふたつをとりました.面白かったのはどちらの場合ともコミュニケーションできてしまっていたこと.

靴下をはめている,というのは音声的に言うと音素を極端に制限された状態です.日本語で言うと「けんきゅうかいにいきました」というのを「えんううあいいいいあいあ」といっているような感じ(厳密には形態素もかなり制限されるのでちょっと違うのですが,とりあえずこういう説明で勘弁してください).収録の間も会話している様子を見ていたのですが,しばらく観察していると口をかなり動かしているのと動かし方が制限の無い場合と違っているようでした.もうひとつのマスクをかぶったほうは,ターンテイキングが上手くいっていないようでしたが しばらく続けているうちになれてきたのか,単語を繰り返すなど別の手段で補っていたみたいです. 一般的に手話はNMS(Non-Manual Signals)がかなり重要な要素をもっているのではないか,といわれていて,それを見えなくしてしまったらどうなるだろうか,というのが実験の目的だったようです.言い換えるならば,「手話としての情報の担い手は何か,何が重要なのか」を見てみたかったということでしょうか.

データをとった後にインフォーマントの方にどちらがやりづらかったか感想を聞いていたのですが,「どっちもやりづらい」とのこと.「意外だ」と思った方もいらっしゃったようですが,私は「なるほど」と思わざるをえませんでした.私自身は,「手話としての情報の担い手は何か」,ということよりは 「手話がコミュニケーション手段たりうるのはどのようにしてか」ということに興味があるので,その意味で,今回の実験はとても示唆的だなぁと感じました.つまり,あの場で行われていたのはコミュニケーションだった,という当たり前のことが 端的にあらわれているだろうなぁと思うわけです.(03/07/27)

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研究会報告 その2

その2では27日のことについて.

27日はsIGNDEX (3)という手話の記述方法についての勉強会と,26日のデータの検討でした.データの検討のほうは,前日に録画したものを眺めながらあれこれと話す程度.sIGNDEXの勉強会は,手話がどういう 言語なのかというところから,sIGNDEXがどう開発されてきたか,今後どう変わっていくべきかというところまで 内容盛りだくさんでした.

工学系の研究会ということもあってなじめるかどうか不安だったのですが,話もできたし自分の関心についても 数人の方と意見を交換できたので収穫あり,というところでしょうか.(03/07/27)

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共通性はあるか

日本手話(視覚言語)と日本語(音声言語)の共通性ということを考えてみようと思います.

「いままで」では日本手話が独立した構造をもつ言語であることがわかってきた,ということを書きました.現在の手話研究というのは言語学(構造言語学)が主流です.ついで教育学や福祉,情報工学といったところ.これらの研究のどれもが前提にしているのは,日本手話は音声言語とは違うということです.そのこと自体はそのとおりだし,特に異論はないのですが,気になることがひとつ.怒られる(?)のを承知でいうと,違いや独立性への関心が強すぎるのではないか,というのがあります.

もっと怒られるかもしれませんが,日本手話が独立しているのは「言語学的に」眺めた場合の話であって,コミュニケーション上のことはまだあまりよくわかっていないのです.エスノグラフィーによる記述などで文化的な違いというのも徐々に研究されるようになって来ましたが,それでもまだ,そういう違いがどんな要素によるものなのか,具体的に何がどう違うのかというのは これからの研究を待たなければならないように思います.

で,ここからが本題ですが,あえて共通性を問うてみるのも面白いんじゃないかなというのが今回の話.共通性というのは言語構造とか,文化とかではなくて,具体的なやりとりの中にある共通性です.例えば,会話をしているときにどうやって会話を始めるのか,どうやって維持するのか,どうやって終わらせるのか.それから会話に参加していることをどうやって表すのか,逆に参加していないことはどうやって表すのかなどなどです.ゴフマンは「どんなコミュニケーションにもそのようなシグナルがある」というかなり大きなことを言っていますが,だとすればそこに音声言語との共通性を見出すことができるはずです.あるいはそこでの相違をみることも.

それがわかったら何かいいことあるの?というのはいろいろ考えられますが,少なくとも, 研究の領域はかなり広がるはずです.手話研究が今後,音声言語の研究やコミュニケーションの研究にとって 有益なものとなるためにも(その可能性は十分にあるはず),やる価値のある仕事ではないかと思います.「いままで」で触れた会話分析的アプローチの活躍する場所はそこにあるはずです.(03/12/16)

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やはり根強いのか

言語の定義をするさいに,

コミュニケーションに関する規則のうち,声にまつわる部分,あるいは声の代替としての文字表記などにかかわる部分

という定義がいまだに一般的なようです.手話は視覚言語ですからこの定義からは外れてしまいます. また入るとしても代替としてしか捉えられません.上記の定義は狭義のものですが,広義の場合を見てみるとようやく視覚言語が言語の中に入ってきます.今の手話研究者の多くが,また実際に手話を使用している方の多くが不満を持っていたり戦っていたりするのは この点についてなのではないかと思います.

私はまだはっきりしたことを提示できるだけの材料を用意できていませんが,会話を眺めたり記述をしてみたりしてきた過程でコミュニケーションに関する規則は手話にも確実にあると感じています.まとまった形でそれらがまだ提示されてはいないとはいえ,「コミュニケーションに関する規則のうち」といっているにも関わらず「声(音声)にまつわる部分」を言語と考えるのでは,想像力が乏しすぎます.コミュニケーションにはいろいろなやり方があるはずです.研究でそれらを扱うときに大切なのは,どんな規則があるのか,規則の運用はどのようにされているのか(コミュニケーションがどのように成り立っているか)ということです.聴覚によるのか視覚によるのかは本質的な問題ではありません.

これからもっと手話のコミュニケーションについての研究が進めば,実は手話について多くのことがわかるだけでなく言語についても多くのことがわかってくるのではないかと思っています.(04/07/14)

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調査協力者の意識

例えばろう者間の(つまり内的場面の)会話を扱った研究の中には,話題転換時に頻繁に現れる「よびかけ」を禁止したところ会話が止まってしまう場合があることから「よびかけ」動作が話題転換時の重要な要素になっていることを指摘しているものがあります.ブレークダウンの起点になっていたのが研究者によって外部から課された「よびかけ」の禁止という逸脱なのは明らかですが,協力者の意識についてはふれられていません.逸脱にたいして参加者が他の手段を探したり,タイミングをいつもより慎重に図っていた可能性を考慮しなければ,内的場面を扱うことの意義が半減してしまうように思います.

日本での手話研究はまだそれほど歴史がありません.相互行為場面の研究もほとんど始まったばかりと言っていい状況です.ろう者間の会話を扱う研究が多く,実験的にいろいろなことをしているのはそういった現状の反映のような気がしますが,だからこそひとつひとつの場面を丁寧に扱っていかなくてはならないでしょう.言語管理理論が指摘するように,表層に現れてくる言語行動はその背景にあるいくつものプロセスから生成されたプロダクトです.表層上の特徴だけを捉えるのではなく,意識を含めたろう者の言語行動を総合的に扱っていくことがより重要な意味を持ってくるはずです.(07/02/12)

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1  西阪仰  2001 『心と行為―エスノメソドロジーの視点―』 金子書房 では,「見ること」を相互行為の中に埋め込まれたものとして記述している.もちろんデータは 日本語の,音声言語のものではあるけれど,手話にも通じるものだと思う.
2  J.V.Neustupnyらによって提唱される理論.会話や談話の構造的・生成的側面だけではなく参加者の意識(逸脱への留意やそこから始まる調整行動など),すなわち管理的側面にも焦点をあてており,より広い射程での議論を可能にすると考えられる.
3  sIGNDEXというのは手話の音韻表記法のひとつで,従来のものよりもひとつ大きい枠で手話を捉えることが できるのではないかと思います.考え方や表記法についてはこちらで知ることができます.
長嶋祐二研究室 http://www.ns.kogakuin.ac.jp/~wwc1015/