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ことばの意味

大学院の授業で連語論というのを扱いました.話をききながら考えたことがあったので, ここではそのことについて書いていこうと思います.

「よむ」ということばがあります.このことばは「本をよむ」とか「空気をよむ」とか「動きをよむ」などのようにいろいろな意味をあらわしていて,それらの意味は「よむ」ということばの もともとの意味から派生しているのだ,というふうに説明されることがあります.多義語とか.でも意味って本当にたくさんあるんでしょうか.ことばが多義であるというのはどういうことなんでしょう.

意味がたくさんあるということは,つまりそれを使い分けるための規則が必要になるということです.ただいろいろな意味がある,というだけだったらそれは結局のところ意味を持たないことと同じだから.「タバコをよむ」とか「横断歩道をよむ」とか,どんなふうにでも使ってよいのだったらわけがわかりません.じゃあその規則はどういうものなんだろう,というのが私の疑問に思うところ.

今回扱っていた連語論では名詞と動詞の組み合わせによってある事態が表現される,という記述がされていました.例えば「対象へのはたらきかけ」とか「心理的なかかわり」とかが表現されるわけです.この連語論での記述は,実際の使われ方をひろって分析していくという点で社会への視点も含まれていますが,どちらかというと言語の構造的側面の方にに焦点をあてたものだと考えることができると思います.

「よむ」というのを考えてみるとこれは確かに「本をよむ」だったり「先をよむ」だったり,いろいろな 組み合わせがあって,対象へのはたらきかけや心理的なかかわりを表現しているんですが,「意味を使い分けるための規則はどんなものなのか」という疑問に対して「特定の意味・事態をあらわすつながりだ」と説明されると,それだけでは不十分なのではないだろうかという疑問が新しくでてきます.つまり,「特定の意味・事態をあらわすつながり」というのは言語の構造的側面によって構築されるだけなんだろうか,という疑問です.これに答えるために以下では「よむ」を例にとって,違った方向から考えていくことにします.

「本をよむ」と「空気をよむ」というので考えてみると,「私は今日,本をよんだ」というのにくらべて「私は今日,空気をよんだ」というのは非常に不自然な感じがします.これには連語論での記述の他にいくつか考えることができそうです.ひとつめは,「空気をよむ」というのは「あいつは空気をよめないやつだ」とか「空気をよんで行動しろ」とか,おもに否定的な使われ方をする,というのがひとつ.それと関連してもうひとつはそのような状況に依存してしか「空気をよむ」は使うことができない,ということ.つまり,「空気をよむ」の意味は言語の構造的側面だけではなく,私たちの活動がその場・そのときにどんなものなのか(だったのか)に 決定的に依存している,ということです(1).

連語論での議論をまとめると,意味は単独で決定されるものではなく直前の単語がどのようなものなのかに依存している,ということになるでしょうか(今回ので言うと「よむ」に対する「本」とか「空気」とかですね).連語論はここらへんをかなりクリアに記述していると思うので,状況に依存した使われ方について検討していくことで「特定の意味・事態をあらわすつながりはどのように構築されていくのか」という,より射程の広い議論を展開できるようになっていくのではないかと考えています(2).(初稿2003→2006/09/20改訂)

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基準

この前の授業で,ある行動が「逸脱」かどうかを判断するときの基準の話になりました.精神障害を持つ人の収容施設(?)のワーカーさんが同じ授業にでていたのですがその方の話だと,そこにくる法律・警察関係の人がそこに入っている人の行動を見たときに, ワーカーは問題ないと思っているにも関わらず,「障害の兆候がある・自傷他害の恐れがある」と判断することが 非常に多いそうです.その結果,措置入院,ということに.

法律・警察関係の人が,このとき判断に使っているのは「法」「医療」という基準なのかなぁと思います.ルーマンの言をかりると,「法」や「医療」は,日常的な経験的な事柄を「合法/不法」や「恐れあり/なし」 というようにしか判断できないような基準(システム)です.では,ワーカーの人が使っているのは何か,と考えてみると「当人とのやりとり」なんだろうなぁと思います.傍から見ればまったく同じ行動でも, 「この人,いつもだったらこんなことしないのに,今日はどうしたんだろう」とか,「この人はこんなことしょっちゅうだけど,いままで特に問題もないし,大丈夫でしょ」というように.

ワーカーのこういう判断は,たぶん私たちが普段行っている判断と同じなのだろうと思います.私たちが普段行っている判断は「AかBか」という択一的なものではないし,判断が行われた後もそれで終わりではありません.突然ともだちが叫びだしても,「疲れてんのかな?」「いやなことでもあったかな?」と思うか, 「大丈夫?」と尋ねてみるかしますよね.誰も「自傷他害の恐れあり」なんて判断しません. 問題が起こったら起こったで調整が始まるだろうし,それもやっぱり日常的経験的基準で 行われていくのだと思います.例えば相談にのるとか,なだめるとか,無視するとか.

問題なのはそういった判断が,あいまいで不確かで信憑性の低い判断としてしか受け入れられないということ.すべて一様に適用できるものとして「法」とか「医療」の基準があるのでしょうけれど, そしてそれはうまく機能するときもあるのだけれど,それだけで良いかというとそんなことはないですよね. 確かに私たちのしている判断は文脈に依存していて,すべての場合に適用できるわけではありません.でもだからこそ,基準からはみ出てしまう大切な部分を見落とさないで済むはずです.法廷であれ医療現場であれ,私たちの世界の一部なのだから,そこに普段している日常的経験的判断を 持ち込むことに反対する理由はないように思います.

ここで書こうと思ったのは,視野の狭い基準で判断するなとか,たくさんの基準で複合的に判断しろ,ということではなくて,判断するのはしょうがないとしても,そこに入りきらなかった部分を 切り捨ててしまわないでもっと丁寧に扱おうということです.画一的な基準を否定しているわけではないのです.

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自然場面?

ついこの間のゼミで,「自然場面と調査場面とをわけるのはなぜか」という話がでました.

自然場面というのは私たちが日常生活をしているなかで起こる会話のことをさしていて,人為的な操作を受けていな((例えば話題とか,場所とか,長さとか,参加者とか)ということです.調査場面というのは調査者がセッティングした状況で,選択した参加者に,このぐらいの時間で,こんな内容を,という場面.このふたつは一応,別のものとして扱っておこうというのがほとんどの研究で見られると思います. 特に日本語教育に限ったことではありません.

私がそのときにした発表に,このことと関連する分析があったので,前から疑問に思っていた 「なぜ分けるのですか,分けることはできるのですか」という質問をしてみました.いろいろと話がでてきたのですが,「なるほどなぁ」とおもったのは,「出てくるコミュニケーションのタイプが違うのでは」 というもの.例えば教室では教室場面での自然なコミュニケーションが,雑談では雑談場面の自然なコミュニケーションが,それぞれあって出てきたり出てこなかったりするということです.実験環境だろうと日常会話だろうと,そこでの秩序は参加者のやりとりによって作られているのだから,何が自然かというのは場面ごとに違ってくるだろうということでした(3).そのコミュニケーションのタイプの違いが場面の違いと言えそうな気もします.

ただ,出てくるタイプの違いをわける基準に使うと,「自然場面」というのを想定すること自体に意味がなくなります.一方で,場面ごとに自然なやりとりがあると言うだけでは,場面が量産されるばかりになってしまいます.どうやったらこのふたつの間をつなげられるか,悩みどころです.

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会話の維持

以前,調査をしたときに協力者の方が「何を話せばいいですか」というのをとても気にしていたことがありました.調査ということで,会話がとまってしまうことをとても気にしていたのだと思います.その会話はとくに長い沈黙ができることもなく時間が来て終了ということになったのですが,私のほうでは最初にそんなことがあったもので,やりとりが維持されるというのはどういうことなんだろう,ということに興味がわきました.やりとりをするときの,会話を維持するための資源にはどんなものが使われているのかをみてみようかな,という今回はその話です.

会話しているときに,例えば「この前のあれどうなった?」「明日の夜暇だったよね?」というように,相手について知っている,もしくは相手と共有している(と思われる)ことが話題に上るときがあります.こういった場合,関連する話題が直後に展開されることが多いので,「知っていること」を 展開のための「呼び水」的に使っていると考えられます.

逆に,知らないことを「呼び水」にする場合はどうでしょうか.以下のスクリプトはAとBの2人が共通の知人について話している場面です.その知人が,Aと一緒に電車に乗っていたときにいすに座らなかったことを話しています.

A: ・・・あんまりすきじゃないみたいで
B: 座るのが?
A: そう
B: あーそうなのー?(かなり大きい声で)
A: そ.いやそれはまぁ空いてる席は・・・

Bが最後にかなり大きい声を出しているのはAの話の内容がかなり意外だったこと,その話を 知らなかったことが強調されているものと思われます.その後でAがその反応を受けて, さらに状況を説明しつつ話を進めています.つまり,知らなかったことを強調することで,知っていることを呼び水にするのと同様の展開が可能になっています.とすると「知っていること」だけではなく「知らないこと」もやりとりの資源となりうる, 当該場面の中でどんな資源がどのように使われるのかといったことは参加者によって選択されている,というように考えることができると思います(参加者がいなければ会話がそもそも起こりえない,というのはまたちょっと別の話です).ここから先の,選択そのものを集中して考えていくか,選択をさまざまな社会的状況・文脈に結び付けて考えていくかは研究者によって違ってきます.私の調査の例で言えば,会話維持のためにどんな選択がどのようにされたか.会話が維持されたこととその会話が調査の一環であったこととはどう関係しているのか.このふたつの方向があるということになるでしょうか.

私の関心は今のところ前者にあって,その関心は 関心 > 共通性はあるかにつながっています(もちろん後者にも関心はあるのですが,そのとっかかりとして やっておかなければならないことだと考えています). 「会話の維持」というのは当然,日本手話にも日本語にもあるものなので,そこで面白い議論ができるようにしたいし,できるはずです.

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1  ここでしているのは, 「よむ」が多義であることの説明ではなく,意味の決定が状況に依存しているという記述です. 意味の曖昧さ(多義であること)の解消(説明)は考えていません.
2  もちろん文脈を問題として議論している場合もありますが,多くの場合「前後関係」というくらいの意味合いでしか捉えられていないんじゃないかなと思うときがあります. ここでは前後関係だけではなくて,「適切さ」という視点でも考えています.
3  エスノメソドロジーではすでに,こういう議論がされてきています. 学習シラバスの構築やモデル化などでこれをやってしまうときりがなくなってしまう部分もありますが, コミュニケーションを扱う以上は避けて通れないだろうと思います.