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議論

唐突ですが,議論するというのは難しいことです. というのもですね,議論すること自体が目的化しかねないから.自分自身そうなってしまっている場合が あるかもしれないなぁ,と反省することもあります.それで,議論をするのに必要な要素というのを 考えてみました.とりあえず3つあります.

「何を」議論するのか
まず,議論をするためにはまず問題が整理されている必要があるはず.整理する作業自体も議論に含まれたりしますが前提として「何を」議論するのかがわかっていなければ そもそも議論などできません.
「何のために」議論するのか
「何を」議論するのかはっきりさせたら,そこからようやく本題です. なんで議論をするのかといえば,そこに解決あるいは検討すべき問題があるからですよね. というよりも,最終的になんらかの着地点がみつけることが議論するということだろうと.つまり,「何のために」しているのか自覚的であることが要求される作業なんだと思います.
「どういう形で」議論するのか
これは場合によっては考えなくてもいいこともあるでしょう.いろいろなものが含まれます. 例えばメールでやりとり,会議を開く,総会を開くなどの媒体とか手段.とりあえずどこで議論をするのか決めればどういう手順で進めるのかはある程度決まってくるのではないかと思います.誰かがテーマを提示して自由に意見を言い合うのか,ディベートのような形で進めるのか.最終的な決定は多数決でするのか,全員一致なのか,それとも別のやりかたなのか.などなど.参加者や団体ごとのやりかたがそれぞれあるでしょうから,そこはまぁ適当に.

ここまで書いたことにしたがうならば,ですが,ただ声高に「議論するぞー」といってもだめなんです.議論を始める前に,「何を」「何のために」「どういう形で」議論するのかについてのコンセンサスを作ること.あるいは着地点をどこにするのかコントロールできる人がその場に(できれば複数)いること.それががないままにはじめてしまったら,結局その議論はなんだったのかぜんぜんわからなくなってしまいます.特に最初のふたつは意識的にやらないとすぐに無意識の彼方へ飛んでいってしまいます.

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言い方

言い方だけではなくて書き方についても同じですが,どちらも「言い方が悪い」「書き方が悪い」とか 「難しくてわかりにくい」とか,そういう風に言うときってありますよね. こう言うとき,それが内容についてではなくてことばの選び方だったり文字面の不手際を指摘して言う場合があります.でも,考えてみれば何かおかしくありませんか,この使い方.

というのは,こういう使い方は,問題のすり替えであると同時に思考の停止だと思うから.最初のふたつは特に.問題のすり替えというのは,内容についての話だったはずが,表現上の話にすりかわってしまっているということ.思考の停止というのは,したがって,内容についての議論を放棄しているということ.

内容がわかっていないないのであれば「それはこういうことですか」とか,「こういうこととは違うのですか」とか,そういう言い方でなければ議論が成立しません.どの言い方もそういったやりとりを繰り返した後で, 問題は何なのか,話の内容は何なのかについて言及するときに,その言い方じゃ伝わらない,その書き方よりもこっちのほうがわかりやすい,そういう使い方をすることばのように思います.

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決定

例えばこんな問い
質問1:あなたの好きなものは何ですか?嫌いなものは何ですか?
質問2:あなたはそれが“本当に”好きですか?嫌いですか?

「私は○○が好きだ/嫌いだ」と言う・伝えることによって好き嫌いが構築されていることが,逆に言えばそうやってしか好き嫌いは構築されえない,つまり絶対的な好き嫌いはない,という結論がここから導き出されます.

これは決定不能性ということについて,構築主義的に考えるとこうなりますという話です.つまり,好き嫌いというのは,たまたま好きに「なった」,嫌いに「なった」だけであって,“本当に”そうかは私たちには判断できない,というわけです.

前半の「好き嫌いは構築されるものだ」という点には反対しませんが,後半の「したがって判断はできない」という点は納得いきません.私はこの質問,ひっかけ問題だと思います.この質問から導かれるのは「決定不能性の説明」ではなくて「決定の破壊」にすぎません.というのは,好き嫌いが決定できないのはこのような問いの立て方をした場合に"のみ"だと思うから.この問いから抜け落ちてしまっているのは,伝えるときにかならずあるはずのコンテクストやインタラクション.伝えることによって,と言ってはいるものの実際はほとんど考えられていないように思います.「伝える」といってもどうやって「伝え」るのか,その方法・媒体・時期・状況など,いろいろあるはずです.

例えばこんな場合はどうでしょう.本当にあったらちょっと怖いけど,ありそうな気がするなぁ.

A:「僕のこと好き?」
B:「好きよ」
A:「ほんとに僕のこと好き?」
B:「ほんとに好きよ」

以下エンドレスに続くであろうこのやりとりで重要なのはおそらく,何よりもまず即答すること.もし間が空いてしまったら,“本当に”好きかどうか悩み始めたら,たぶん2人は破局します.ここでは即答することが「“本当に”好きだ」というメッセージを「伝え」ることになるわけです (もちろん即答することが疑いを招く場合もあるだろうとは思いますが,どちらにしても同じでしょう).つまり,「伝え」ることによって“本当に”好きかどうかが「決定」されているのだといえます.もうすこし付け加えると,ここでの「決定」は個人の中にあるものではなくて,2人の間にあるもの.その意味では好き嫌いは判断できないものではないし,決定不能なものでもないはず.

ここであげたのは完全に架空のやり取りであって,そのぶん怪しい議論になってしまっていますが,相互行為の中で構築される好き嫌いはおそらくこういうものではないかなぁと思います.いくら決定不能性ということを言ってみても,私たちの日常はやはり「判断」「決定」されながらすすんでいくし,そのときにはなんらかのやり取りが必ずあるはずです.

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きっかけ

私が「手話って面白いかもしれない」と思ったのは,大学のサークルでの体験がきっかけでした.サークル活動のときに先輩から教えてもらうわけですが,いざ使ってみようとするとまったくだめで 自分の言いたいことも伝えられないわ,相手のいってることがわからないわで散々でした(今もそうか).そんなわけで,ちゃんと話せるようになりたいなぁという思いが強くなりつつあったのですが,手話が習得の対象であると同時に,研究の対象になってしまったのはこんな一言を聞いたからです.

(聴者の人を指して)あの人はろう者より手話がうまい

その人が何を言っているのかいまいちよくわからずにその場は流してしまったのですが,あとからよくよく考えてみると,その人がなぜそんな風に思ったのかが気になり始めました.とても違和感がありました.その違和をなんとか言葉にできないだろうか,というのが 私の関心の一番基本的な部分になっています.(03/07/04)

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