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2011年6月13日

手話会話のデータセッション

6月12日(日)は科研の研究会におよばれして京都へ.湿気がかなりきつかったのと準備不足で直前までスライドを作っていたせいでだいぶ体力を削られました... なぜだか人がやたら多かったのは修学旅行かなにかのシーズンだったからでしょうか.

話題提供の内容は,手話「会話」の記述と分析という趣旨.おそらく世界初の試みだと思いますが,手話会話の映像データと文字化資料を使って,データセッションをさせてもらいました.文字化資料というところが大事で,会話の中で「参与者の中の誰が」「どのタイミングで」「どんな振る舞いを(e.g. 発話の産出開始・終了,うなずき,首振り)」「どのように」しているのかをつかみだして議論の俎上に載せるには,どうしても必要なもの.最近ボスと一緒に進めている仕事の中でも一番気を遣ってきたところです.参加メンバーがそもそも手話について一定の知識を持っていて,なおかつ会話分析にもなじみがあるという背景が大きいとはいえ,活発な議論ができ楽しい時間となりました.まだまだ「順番交替が1回起きている」「1つの順番内での修復が起きているといった」だ短い断片を検討することしかできないなど,いくつかの新しい課題も見えてきた一方で,具体的に相互行為の内容にまで突っ込んだ議論ができる段階にきたかなという確かな手応えがあったのが,今回の一番大きな収穫です.今後はデータセッションの機会をつくりながら,少しずつ視野を広げていくことが研究進展の課題になるかな.さて,がんばろう.

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2011年6月 3日

言語政策学会 緊急研究報告会

先日の5月29日,言語政策学会の緊急研究報告会が新宿の麗澤大学サテライトキャンパスで開催されました.2011年3月11日に発生した東日本大震災を受け,災害時に情報弱者となりうる在日外国人や聴覚障害者の人々にたいする情報提供のあり方を考えるという主旨で,登壇者の方々それぞれに関わった事例や調査などの報告をしていました.私も同僚のSさんの紹介でろう者の方にインタビューをすることができ,わかったこと,考えたことなどを,以下のような概要でお話しさせていただきました.

今回の震災で,情報提供・保障という点で1つ大きな出来事だったのは,政府会見に手話通訳者が配置されるようになったこと.インタビューで応えてくれた人たちをはじめ,多くのろう者にとっては手話通訳の品質は充分なものではなく,まだまだ改善が必要なのは間違いありませんが,とにかく「公的な言語サービスの中に日本手話が含まれるようになった」という点で非常に大きな一歩だろうと思います.

一方,不充分だった情報保障に対してろう者が情報弱者の立場に甘んじていたかというとまったくそんなことはなくて,DNNの立ち上げ,Twitterでのつぶやきを契機とした動画配信サービスを利用した独自の手話通訳動画像配信への関与,職場や客宅での情報共有・交換といった様々な形での自助・相互扶助が行われていたことがインタビューで語られました.つまり不充分な情報提供という言語問題が立ち現れた時に,問題意識を共有することによって,言語問題への調整が実施されていたわけです.このとき,きわめて広い範囲で問題を共有し,スピーディに対応することが,ソーシャルメディアやウェブサービスによって可能だったのだろうと思います.

政府ないしは言語政策機関がイニシアティブを取って言語サービスを展開するのはあるべき情報保障の形として追求されてしかるべきですが,そういった縦のつながりの充実だけでなく,今回多くのろう者や手話コミュニティの人々が可能にした横のつながりを強化する・サポートすることを考えてもよいはずです.このあたりは,今後の(政策・研究両面での)課題として検討していかなければならないでしょう.私のできることもここにはあるはずなので,継続して考えていきたいと思います.

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2010年6月14日

手話会話のターン・テイキング

研究発表の覚え書き.

先週後半に行ってきた研究室の合宿で手話会話の順番交替(ターン・テイキング)について発表.博論で考えたことを若干修正・追加して,2者間の手話会話で起こっていることをまとめて話してきました.

私が博論の中で言いたかっことは次のようなことです.手話会話では,順番が交替してもよい位置というのが発話の組み立て(統語,韻律,行為の3つ)から明らかであって,話し手と聞き手はその明らかな特定の位置で話す順番の交替を行っています.つまり,従来の音声言語会話研究で実証されてきたターン構成単位移行適格場完了可能点といった手がかりが,手話会話の場合にも同様に機能しています.ただし,手話会話ではそういった相互行為上の特定の位置が明らかだということだけではターン・テイキングが可能とならず,話し手/聞き手相互の視線獲得がターン開始の可否に直結したメカニズムに基づいて作動していることがわかりました.手話が(音声メディアではなく)視覚メディアを使った言語であることを考えれば,このメカニズムは非常に直感的な,当たり前のことのようにも思われますが,「手話会話での当たり前」にたいして,定量的側面の検討と定性的側面の記述に基づく構造的な説明を与えることができたと思っています(" 1).

というような話をした上でいくらかの突っ込みを受けつつも,これからの研究の道筋を示すことはある程度できたかなと,ちょっとした手応えをえることができました.あとはこれの,コアの部分をもう少しちゃんとまとめて論文にしようと考えています.時間がたたないうちに仕事しないといけませんね.がんばろう.

1
*1: 従来の研究で手話会話の視線について指摘されいないわけではなく,「ターン末尾での相互注視がターン・テイキングのシグナルになっている」という議論があります.ただしこれは現象の記述としては妥当だろうと思いますが,「なぜそのようになっているのか」「ターン内部で視線を移動させることができるのはなぜか」「移動させることが可能な位置/不可能な位置の違いは何か」といった問いには充分に答えていないように思われます.

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2009年6月10日

「多文化共生」の勉強会 第4回

日本における多文化共生とは何か―在日の経験から間がだいぶ空いてしまったのですけれども,勉強会の第4回.『日本における多文化共生とは何か』をようやっと読み終わりました.

本書の内容についてはいろいろな理解があるはずですが,個人的には,日本人 vs. 外国人のような二項対立の構図を「当事者」という枠組を持ち込むことによって組み換えることが可能なはずだし,そうすることが重要であるというふうに理解しました.

前に総務省が実施していた共生社会についての調査結果を読んだことがあるのですが(誰でも読めるように公開されていたはず),調査項目に「共生するのは誰と誰か」というのがあってびっくりした記憶があります.設問の内容をうがって理解すれば,共生の相手は取捨選択される可能性がある,ということになるかもしれません.他にもいろいろ似たような,あるいはもっと露骨な事例はあるでしょうが,そういったことを踏まえて留意しておく必要がある重要なポイントだろうと感じたのが,最後の章で上野が指摘していたこと.すなわち「共生」や「多文化共生」は某かの実体が伴っているわけではなく,文脈や意図によってどうとでも定義・運用が可能な,それ自体は空虚な概念である(ここらへん,構築主義の武器はやっぱり重要だなぁと改めて思った)ということです.だとすれば,私たちが考えないといけないのは自分たちの考える「共生」や「多文化共生」が,知らない間に意味をすり替えられていたり,誰かに占有されていたり,それを押しつけられたりすることに対して,まずは「嫌だ」とか「おかしい」とかの意思表示することなのだろうと思います.

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2009年5月14日

「多文化共生」の勉強会 第1回

日本における多文化共生とは何か―在日の経験から今週から院生仲間と,ずっと胡散臭いなぁと思っていた「多文化共生」についての勉強会を始めました.最初のとっかかりとして取り上げたのは以下の書籍.

  • 朴鐘碩, 上野千鶴子, 加藤千香子, 崔勝久, 曺慶姫, 伊藤晃. 日本における多文化共生とは何か―在日の経験から, 朴鐘碩, 加藤千香子編. 日本: 新曜社.

できるだけ丁寧に読んでいこうと考えて,序論から始めることに.導入部分なので詳細な議論が展開されているわけではありませんが,次のようなことが述べられていました.すなわち今までの「共生」が果たしてきた役割(e.g. 川崎市での「共生」施策)を一部認めた上で,それだけでは埋められない部分を「当事者」が「個」の立場から問うことの意義が強く押し出されています.また「共生:」という概念が必ずしも差別や区別と矛盾しないものであるという指摘もはっきりとされています.

このことは別の言い方をすると,社会的・受動的な諸条件(e.g. 社会制度や法律の整備など)による構造的「共生」という段階から,「当事者」が選択的・能動的にに関わっていく管理的「共生」へと視点がシフトしつつあるということになるのだと思います(ここでいう管理的というのは言語管理理論でいうような,可変的な個々人の活動のそれ).あるいは個人的な活動に目を向けずに「共生」を語ることはできない,という主張と解釈してもいいかもしれません.

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2008年3月29日

第21回 社会言語科学会研究大会

予稿集3月22日(土)と23日(日)は社会言語科学会の,第21回研究大会で,今回は日本手話の会話を対象にした研究の発表をしてきました.外せない用事ができてしまって22日だけの参加だったのが心残りですが,収穫の多い大会だったと思います.

発表中,ラップトップのバッテリが落ちるというあり得ない失態をやらかしてしまったので,言えなかったことなどの補完もかねて,参加報告などしてみようと思います.

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2008年3月 9日

言語管理研究会 第2回年次研究発表会

言語管理研究会 ポスター2008/03/08は言語管理研究会の年次研究発表会でした.前回の研究会では自分が発表していた記憶がありますが,早いもので,もう1年経ちます.去年もやっぱりそうだったんですが,花粉のせいで喉がガラガラ,目はショボショボ,鼻はグズグズ.研究会の記憶が常に花粉との戦いと一緒にあるのは,なんというか,哀しいものです.全国の花粉症で悩んでいる方々も同じなのでしょうけれどもね.

えぇと,マイクを持ってあっちこっちに走っていて質問ができなかったので(ま,言い訳ですかね),代わりにここで感想など書いてみようかと思います.

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2007年12月16日

言語政策学会 月例研究会 @ 早稲田

15日は言語政策学会の月例研究会で早稲田へ.ろう教育史についての講演を聞いてきました.

言語政策学会 関東地区月例研究会
テーマ:戦前のろう教育と手話について
発表者:野呂一 氏
http://homepage2.nifty.com/JALP/sub8.html

明治期に日本手話を中心として行われていた教育(文章指導などの場合に応じた日本語対応手話の併用も)が大正,昭和へと移るにしたがって口話法に取って代わられ,現場から日本手話が排除されていくプロセスを,多くの資料をもとに丁寧に議論していて非常におもしろい発表でした.数少ない残されている資料を見ていくと,当時は手話が充分に教育言語として利用され,またそれに耐えうる高度なレベルに達していると認識されていたことが見て取れますが,日清戦争後に始まった「国語」教育(「」付き注意)によって状況が一変していきます.肉のところははしょりますが,骨のところで野呂氏は次のような認識を示しています(メモから再構成しています):

「国語」の誕生によって日本の教育政策は「話し言葉」にシフトしていくことになりますが,口話法普及のきっかけとして取り上げられてきた昭和8年の鳩山文相の訓示は,むしろそのような教育政策の中でのターニングポイントであると考えています.つまり「統一された日本語による国民国家を形成するための同化政策」という大きな流れに,ろう教育も巻き込まれないではいられなかったということ.

こういった認識を前提として現状を見るに,少なくともろう教育について,日本は大正期以降の国民国家思想の残骸を引きずっています.日本のろう教育の中で,言語としての日本手話という概念がなかった黎明期にこそ手話が認められ,今まったく逆の様相を見せることになってしまっているというのは皮肉な話だと思わざるをえません.そう考えると,過去の実際を顧みること,ろう教育が今よりも活き活きとしていた時代を認めるのを恐れているようにさえ見えます.前にこのブログでも紹介した明青学園で来年度から始められようとしている試みが,ろう教育史における第2のターニングポイントになることを,心から期待しています.

  • 07/12/17 日清戦争とあるべきところが日新戦争となっていたので修正

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2007年12月 8日

第13回 言語管理研究会 @ 新宿

今日は第13回の言語管理研究会で桜美林大学の新宿キャンパスへ.昨日早く寝た甲斐があって寝坊せずにちゃんと参加してこれました.行く途中は同じ研究室のメンバー数人とおしゃべりしながらだったのですが,みんな職業病持ちであることがわかっておもしろかったです:-p

研究会では3人の方から「多言語使用者の言語管理と言語使用」というテーマで話題提供をしてもらった後ディスカッションに入りました.中国朝鮮族の言語意識について話題提供をしてくれた金さんの報告では,第1・第2言語,あるいは母語といった従来の多言語使用を考えるときに使われてきた概念に収まりきらない複雑な意識が見えていましたし,中国と台湾の就学生が教室外でどのような言語使用をしているのかを報告してくれた尹さんの話の中では,ある問題への対応には言語能力それ自体の高低よりも,習得されているコミュニケーションのタイプや社会文化の影響が大きいことが指摘されています.このことは池森さんが報告してくれていたパキスタン人の就労者が日本での生活(言語接触)開始時に,自分の生まれ育ったイスラム文化圏の影響から,女性との会話にとまどいを覚えるという事例にも通じるところがありそうです.

ディスカッションを通じて感じたところを書くと,扱っているテーマも違えば当然調査対象も違っているので当然と言えば当然ですが,一口に多言語使用(あるいは使用者)と言っても非常に豊かなヴァリエーションがあるのだということ.以前の研究会であったフィリピンでの言語使用のように「明確な基底規範のない状態」が規範として機能する社会がありうるし,パキスタンのように多言語社会ではありつつも活動の属しているドメインによって言語の選択と使用に明確な基準が存在する社会もあるし,日本のような単一言語が支配的位置にある社会もあるし,本当にいろいろあって,当然それぞれの社会での多言語使用の様相は変わってくるはずです.今の時点でこういった様々な事例をどう抽象化していけるのかという落としどころを考えるのは早すぎるのだろうと思いますから,いろいろな多言語使用の実態を観察し,蓄積していくことが,しばらくは最優先の課題になりそうです.

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2007年8月 6日

ろう教育の研究会

8月4日は講演会があって新馬場まで.最初,新木場と勘違いして大崎まで行ってしまったのは内緒です.品川駅のばか.品川のせいじゃないけど.

「バイリンガルろう教育とろう児の母語としての手話言語」
2007年8月4日(土) 10:30-13:00
六行会ホール
講師:トーヴェ・スクトナブ=カンガス氏

内容はおもしろかったです.手話言語が置かれている状況を言語政策や言語権との関わりから解説していくことに加え,今後ろう教育に関わる我々が,制度的な問題を政府や自治体へどのように働きかけてクリアしていくかなどの実践的な議論がわかりやすく盛り込まれていたと思います.英語・日本語・日本手話の3言語入り乱れての通訳体制や質疑でのやりとりも非常におもしろく,準備を進めてきた運営の人たちには本当に頭が下がる思いでした.

以下,散発的な感想を.人工内耳の問題については減算的か加算的かということよりも,同化を求めるということ自体をもっと強く問題化していく方が戦略としてはいいのではないかと思いました.完全な同化が認められることは永久にないわけですから(出典を失念してしまいましたが,障害学での同化と排除についての議論が参考になると思います),ろう教育が目指すべきなのはそうではない,つまり同化を必要としない,相手への共感に基づくオルタナティブの実践のはず.

それから「言語権を認めることが,裁判や賠償の問題の面から考えても国家の利益につながる」と思いっきりストレートに言及していたことに,今までにあまり考えたことのなかった観点で,個人的には新鮮な驚きがありました.ろう教育に限らず,戦略的に幅広く言語問題を考える上でも重要になってくることなのかもしれません.

それと一番興味深かったのは,講演の主張として「文化」ということばが一度も出てこなかったこと.多文化共生という言葉には少なからず疑いを持っている私としては,これは良い意味で驚きました.つまり,多様な人々の参加による社会の構築,という意味で共生が叫ばれているのであれば,それはいわゆる文化よりももう少し狭い枠組での(例えばスピーチ・コミュニティ内部での)個別性や多様性によって実現されるべきものなのではないかと思っているということです(誤解を招くと困るので一応断っておきますが,文化の実体を認めないという主張ではありません).

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2007年3月11日

言語管理研究会 第1回年次研究発表会

2007年3月10日(土)は言語管理研究会の第1回年次研究発表会でした.第1部が研究発表3件,第2部がワークショップでプロセス研究の可能性についてのディスカッションという感じ.発表者としてエントリーしていたので,今回は「日本手話話者の調整行動バラエティ」というタイトルで発表してきました.相変わらずのミニマリズムでしたが,落としどころは妥当だったのではないかと自己評価しています.うまくいったかどうかはわかりませんが.

ワークショップのほうは,いろんな方が参加していておもしろい議論ができたように思います.お茶大の博士課程に在籍している楊虹さんから提供していただいたデータを元に(未発表のものでした.ふつうはあり得ないですよね.ありがたいことです),「参加者の意識」,「談話のプロセス」,「場面の構築」という3つの問題提起にそってディスカッションに入りました.

どのグループでも重要だと指摘されていたのは,参加者の認識を捉えることの意義.私は「談話のプロセス」のグループに入ってあーでもないこーでもないと考えていましたが,プロダクトとして出てきている談話(あるいは文字化された資料)には私も含めて何人もの参加者がいたわけです.その参加者たちがどんな目的をもっていて,どこに向かおうとしていたのか,お互いのことをどう認識していてどんな評価をし合っていたのか,それはどう変化した/変化しなかったのか,といったことを積極的に分析に取り入れて当事者に接近していくことがプロセス研究のコアだし重要なのだろうという共通した理解が最後に出てきたのはおもしろかったし,これまでの研究会の活動のひとつの成果だろうと思います.

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2007年3月 6日

全体研究会終わる

今日は所属研究科の全体研究会でした.4回の発表ノルマのうち今回が4回目.ようやく解放されます.解放されるというほど苦痛なわけでもないのですが,なかなかに時間を取られるので忙しいこの時期にはできれば遠慮したいイベントなのでした.

前回は博論構想ということで,目次を考えてそれぞれの章で何を考えるのか,を発表しましたが今回はその中の一部をちょこちょこと変更したり発展させた内容を.

今までは分析した資料から示唆されることとして,日本手話の会話で現れるポーズのほとんどは(言語管理理論でいうところの)逸脱であるという前提で議論を進めてきたのですが,その前提に立つと扱えない事例がでてきます.このことへの反省として今回は,現象として現れたポーズが「話順交替の逸脱として留意されている場合」,「会話中の別の逸脱に対する調整として利用されている場合」の2種類がとりあえずありそうだという内容を話しました.例えば「相互注視状態(お互いに視線を合わせている状態)でのポーズ」が逸脱になっている事例というのはSacks et al(1974)での他者選択のルール違反との関連で説明できるのではないか,あるいは「話題のズレを元に戻そうとしてポーズを意図的に入れる」という事例はやはりSacks et al(ibid)での自己選択ルールとの関連で説明できるのではないか,といったことです(もちろんこの議論はFUIで質的に補足することが欠かせません.会話分析派は認めないでしょうけれど).

今までの日本手話研究では,ポーズやオーバーラップは現象として捉えられることがほとんどでした.例えばAとB,2人の会話を扱うときに重なりはA-A/B-B(スラッシュのところが重なり)という2者間での連続発話産出だったし,ポーズはA-φ-B(ファイのところがポーズ)という2者間での不連続発話産出でした.参加者がなぜそのような発話産出が可能/不可能だったのかという議論は非手指動作NMSとの関連からはされてきたものの,話順交替のルールや参加者の意識といった観点から分析されている研究をしている研究者はほぼ皆無といった状況です.

まだまだパイロット的な議論でしかない段階ですが,分析を深めることで何か見えてきそうな気がしています.先の長い道にはなりそうですけれども(!).

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2006年12月17日

we use language as necessary

昨日(12月16日)は神田外国語大学で言語管理研究会がありました.今回は多言語使用者の言語意識に焦点をあてたワークショップという形での開催.話題を提供してくださった方々の言語的なバックグラウンドや今現在の言語使用について,いろいろな話を聞くことができておもしろかったです(研究会についての詳しいことは言語管理研究会ウェブサイトでご覧ください).

テーマ:
多言語話者の言語管理(その2):日本における多言語使用者と彼らの言語意識
話題提供者:
ラビンダー・マリク(IES全米大学連盟東京留学センター代表、浦安在住外国人会長)
アリス・リー(神田外語大学、元Director of Programs for Trans-Pacific Exchange at Stanford University)
中川康弘(神田外語大学留学生別科)
コメンテーター:
サウクエン・ファン(神田外語大)

話を聞いているなかで一番印象に残ったのはこんな一言.

we use language as necessary

様々な生活場面での様々な目的のために複数の言語を「必要に応じて」「選択的に」使っているというのはまさに言語管理そのものだし,またそれが多言語使用者なのだということが端的に表れている一言だと思います.つまり多言語を駆使するというのは,その人が何語を使えるのかというabilityの問題ではなく,それをどう使うのかというmanagementの問題なのだということなんですね.

私が関心を寄せているろう者についても,今回の研究会で話していたようなことがやはり言えます.今の日本社会の中で彼らがどのような言語使用をしているのか,あるいはせざるをえないのかという問題について言語管理という視点が果たす役割は大きいのではないかと思っています.

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