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2007年2月12日

自然,自由,本来,本質

更新情報:2件
「手話研究のこれまで」にろう社会運動についての部分を加筆
「手話言語研究」に「調査協力者の意識」を追加

エントリのタイトルになっているのは,私が研究を進めるとき,論文を書くときに絶対に使わないようにしているタームです.例えば自然場面,自由対話,本来的には,本質的な問題,などなど.

理由は大きく次の2つです

  1. 自然場面や自由対話という言葉は,調査者のことばであって場面の参加者のことばではない
  2. また調査というセッティング自体,自然ではないし自由でもない(逆に調査それ自体が相互行為の行われる自然場面だと考えることもできる)

1は当然のことですが,意外に忘却の彼方へ飛んでいってしまうことかもしれません.これは私も含めてなので自戒を込めて.私たちは普段の生活の中で様々な場面に遭遇していて,場面から場面へと次々に飛び移ってやりとりを紡ぎ出していきます.ただしその中には自然場面ということばでくくれるようなものはないんじゃないだろうかと思います.私たちが遭遇しているのはあくまでも,買い物に行った時の店員とのやりとりだったり,恋人や家族とのやりとり,研究会での質疑応答,遅刻したことへの謝罪とその後の仕切り直し,といった具体的な場面のはずです.

それから2は「Study > 研究の部屋 > 自然場面?」で書いた話.単語ひとつにこだわり過ぎるきらいがありますが,完全に,まったく自然で自由な場面なんて私はどこにもないと思っています.例えそれが調査以外のセッティングで起こったものだとしても,何が自然でどう自由だったのかは参加者が場面をどう認知していたのかに関わる問題です.場面の外部(どこまでが内部かという問題はありますが)からの操作がないという意味では調査者にとっても協力者にとっても自然な場面なのかもしれませんが,そこまで無邪気に「自然なやりとり」を信用していいものかどうかには疑問が残ります.

という理由で私はタイトルにあることばを使わないようにしています.使ったが最後,言語行動や相互行為の研究ができなくなるような気がするわけです.私が研究のフレームとして使っている言語管理研究や接触場面研究が魅力的なのは,ここで述べた2つの問題から距離をとることができる態度をとっているから,つまり「ある特定の場面での参加者の意識」に最大の関心を寄せているからなんだろうと思っています.

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2007年2月 3日

会話の成功 / 失敗

金曜日(06/02/02)は今年度の最終授業で発表が当たっていました.何を発表したものかしばらく悩んでいたのですが,前回の私の調査資料の中からやりとりがぎこちなくなってしまった例を取り上げて,これまでの先行研究では「理想的な会話場面」を取り扱おうとする姿勢が強すぎるのではないかという話をしました.

例えば自由会話を扱った研究の中には,話題転換時に頻繁に現れる「よびかけ」を禁止したところ会話が止まってしまう場合があることから「よびかけ」動作が話題転換時の重要な要素になっていることを指摘しているものがあります.しかし,「よびかけ」には確かにそういった側面がある一方,制約をかけられた参加者にとってみればその制約自体が逸脱になっているはずです.この逸脱に対して参加者はどんな評価をし,調整計画をたて,実施していたのかというプロセスについての検討がないまま議論を進めることはできないと思っています.表層に現れたブレークダウンの起点になっているのは研究者によって外部から課された「よびかけ」の禁止という逸脱なわけですから,参加者は他の手段を探したり,タイミングをいつもより慎重に図っていた可能性も考慮しなくてはならないでしょう.したがってそのままでは「よびかけ」が重要な要素であることには繋がらないのではないかということですね.

頂いたコメントの中で考えなければならないなと思ったのは,「会話の成功 / 失敗とはなんのことか」というもの.私の調査の中からやりとりがぎこちなくなってしまった例を取り上げて,と冒頭で書きましたが,これは調査場面であることを逸脱として留意したことが影響していました.しかしぎこちなくなってはいるものの,調査協力者は会話を維持しようと努力し続けていました.このことをどう考えるべきか.ぎこちなくなっているから,普段のやりとりとは違うからといって,単純に失敗であったと言ってしまってよいかどうか.これまでの研究ではこのような事例をほとんど扱ってきませんでした.言い換えれば「理想的な会話場面」を扱うことでそれ以外の事例を排除してきたということかもしれません.しかし,どうもそれではいけないという気がしています.

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2006年11月13日

「ぶっちゃけこれ食べたいんだけど」

今朝コンビニで,私の横にいた女の子がひとこと

[ぶっちゃ・ける]
隠し事などをしないで洗いざらい話す.
[ぶちあ・ける]のくだけた言い方.

なんだってまたそれを食べたいことをぶっちゃけなければならなかったのか.ぶっちゃけなければならないほど隠しておきたかったのか.だとしてもなぜ今ぶっちゃけるのか.いろいろ考えてみると謎ですが,たぶん考えるほどのことでもなくて,「これが食べたいんだけど他のも食べたいのでどっちにするかとっても悩んでます」くらいの意味になるんでしょう.

とすると,だいぶ話が飛躍しますが,ことばの意味というのはやっぱりその場・その時の活動に依存してしか機能しないものなんだと思います.私が聞き流せなかった「ぶっちゃけ」ということばは「彼女たちの活動」の中で使われる限りにおいては留意の対象ではないし,私が使う「ぶっちゃけ」とは違うものとして構築されているようです.

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