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身体化された読書 [news]

ニュースを流し読みしてたらこんな記事を見つけたのでエントリ.電子書籍の登場で読書は変わるか,という問いに私なら違った意味で「たぶん変わらない」と答えますという話です.

--たとえば、キンドルに日本語版が出たら、私たちの読書は変わるだろうか。

◆日米では、読書習慣や出版文化が明確に違う。しかもそれは急には変わらない。米国人にとって「読書は消費」だといわれており、バカンスに本を4~5冊持って行き読み終わったら捨てて帰る人が多いという。日本人は紙質や装丁にこだわり、読み終えても取っておく人が多い。米国で成功したから日本でもというのは、分析が足りないと思う。

(電子書籍:「元年」出版界に危機感 東京電機大出版局長・植村八潮さんに聞く - 毎日jp(毎日新聞) より引用)

引用したあたりの話については概ね同意するものの,言い足りないんじゃないかなと思うところがあったのでここではちょっと違った視点から考えてみました.ポイントは読書を「身体化された活動」として考えるということ.(電子書籍のほうがいい!とか,紙以外は認めない!とか,読書の本質とは!みたいな,そういうことを言うつもりはまったくありませんので念のためお断りしておきます.)

引用した部分では読書習慣や出版文化について触れていますが,習慣というところをもうちょっと突っ込んで言うなら,「身体化された読書」という視点が抜けているんじゃないかなという気がします.個人的には断然(本に限らず論文でもなんでも)紙で読む派です.理由はいくつかありますが,気軽に書き込めないからというのがひとつ.ただこれは読書ノートをつけているので(ちょっと面倒ではありますが)それほど大きな問題ではありません.一番大きいのは電子書籍では内容に集中できないから,なんです.

読書に集中するということをもう少し別の言い方で表現すると「内容を咀嚼する」というのが個人的には一番近いかなと思いますが* 1,紙のページをめくりながら,時々指を挟んで読み返したいところをマークしたりして行きつ戻りつ内容を追いかけていくと,頭の中で情報が整理できて集中できるわけです.こういうのはわりと個人的な認知上の活動で一般化しづらいポイントかもしれませんが,そういう活動だからこそ,個人の身体的な活動とは密接に関わっているんじゃないかなと思うわけです.そういう意味での「身体化された読書」.

とすると電子書籍を読むという活動とそれに伴う集中というのもあり得るだろうと.つまり画面をフリックしてページを送り,電子的にしおりを挟んだりメモをとったりしながら内容を追いかけていくという活動があるのなら,それに沿った認知というのも当然あるはず(というかないとおかしい).私はそれができないので電子書籍には手を出しません(し,出すとしても印刷が許可されているものだけです)が,電子書籍での読書が紙媒体と同じレベルにまで身体化されている人にとっては,紙質や装丁というのは周縁的なことなんじゃないかなと思うわけです* 2.またアメリカでは(実際にそうなのかどうかは知りませんが,)「読書は消費」なのだとしてもアメリカに凝った紙質や装丁の本がないわけではないですし,そういう本が好きな人もいます.日本では「読書は消費」ではないようにも思われないので,結局読書という活動そのものへの変化は起こらないんじゃないかなと思っています.

* 1
*1: もちろん他の表現もありうると思います.ひとまず「読書」の個人的な理解ということで.
* 2
*2: その周縁的なこと(つまり文化)こそが大事なんだという議論はあるはずで,そういう議論のほうが私は好きです.日本ではそこにかける情熱が他の国とは比べものにならないくらい強いんだ!という言い方が可能かもしれません.

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