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手話コーラスとは何か [weblogs]

本題に入る前に1つだけ.私はこのエントリで「手話コーラスはろう者ではなく,聴者に向けられているものだ」ということを書こうと思っています.が,手話コーラスそれ自体を「意味がない」とか「やめたほうがよい」とか,非難するつもりはまったくありません.

ということで断り書きでした.では本題へ.

手話コーラスは誰に向けられている?

手話コーラス,私の所属している大学の手話サークルでもやっていますが,入った当初からなんとなく持っていた違和感が最近になって言葉になってきたような気がしています.ではその違和感とはなんだったのか.端的に言うと,手話コーラスは誰に向けられたものなのかということに対する違和感でした.

デフ・ミュージックから考える手話コーラス

私は,自分のサークルでこれまでやっていたものも含めて,その他いろいろなところで見た手話コーラスがろう者に向けられたものであるとは思っていません.これは次のような体験があったからです.情報がなかなか大々的には出てきませんが,デフ・ミュージックという領域があります.一度だけコンサートに行ったことがありますが,聴者の想像する音楽とは別の,しかし,確かに音楽だと感じられるパフォーマンスがそこでは披露されていました.私がこのときに感じた音楽とは,紡ぎ出されるリズムであり,演者の動きでした.

私はこの体験があってから基本的に,聴者が楽しんでいる音楽に手話つけたものが手話コーラスなのだと思っています.「聴者が楽しんでいる音楽」というところがポイントですが,これは音を中心としたものです.一方で,デフ・ミュージックはそうではありません.私が感じたものが全てではありませんが(詩のように韻があるはずだし,見ることの心地よさがあるでしょう),リズムや動きに音楽を見ているものです.つまりろう者と聴者とでは音楽のとらえ方が異なるわけです.だから,手話コーラスという活動に参加している当事者たちがどう思っているかとは関係なく(例えば,ろう者にもこの曲の良さを伝えたい,楽しんでもらいたいと思っているとしても),聴者の枠組に従った手話コーラスである限り,それは聴者に向けられているものです.詞の美しさやおもしろさは伝わるかもしれませんが,音楽は伝わっていません.

お互いに理解できる「音楽」をつくる

という風に考えると,ろう者と聴者とが一緒に楽しめる音楽を作り上げるにはどこらへんを共有できるのかを理解していかなければなりません.

ではそのためにはどうすればいいのかを考えると,全然関係ないように思えるかもしれませんが,日本手話を学ぶことが1つの手段としてあげられるのではないかと思っています.手話コーラスが聴者に向けられてしまっている要因の1つとして,日本語対応手話(かそれに近い中間手話)が使われていることの影響が無視できません.日本語対応手話は日本語であって日本手話とは別の言語体系に基づくものですから,当然あらゆる状況で日本語の影響が大きくなります.普段の日本手話での会話を見ていると,ガチガチの日本語話者の私には全てを理解できているわけではないでしょうけれど,そこには言語的なものも非言語的なものも含めて日本手話のリズムがあることがわかります.このリズムはデフ・ミュージックに通じているはずだし,手話が言語である以上,(完璧にではないにしても)習得できるもののはずです.つまり聴者がろう者と共有することのできる部分のはずです.共有できるものを少しずつ増やしていきながら,お互いに共感しながら作り上げていく音楽,そういうものを作ってこそ手話コーラスをやる意味があるんじゃないでしょうか.

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