20Fからの眺め [weblogs]
今通っている都内の職場は20Fに喫煙室があって,晴れている日にはそこから富士山が見えます.少し前の写真ですが,綺麗に撮れたものがあったのでアップロード(日中はスモッグが出ていることが多くて,これだけ綺麗に見える日はなかなかありません).
こちらの写真は夕暮れ時.建物と富士山がちょうど東西に位置しているのでこんな景色を見ることもできます.夕日に映える富士山というのもなかなか綺麗ですね.

今通っている都内の職場は20Fに喫煙室があって,晴れている日にはそこから富士山が見えます.少し前の写真ですが,綺麗に撮れたものがあったのでアップロード(日中はスモッグが出ていることが多くて,これだけ綺麗に見える日はなかなかありません).
こちらの写真は夕暮れ時.建物と富士山がちょうど東西に位置しているのでこんな景色を見ることもできます.夕日に映える富士山というのもなかなか綺麗ですね.
2010年が始まってもう2週間以上たってしまいました.今更ですがあけましておめでとうございます(寒中お見舞い申し上げますのほうが良いのかもしれないけれども,言いたいので言っちゃう).ちなみに写真は今年の年賀状に書いた寅の絵.毎年干支の文字とくっつけて何となくその動物っぽくなるような絵を描いています.
今年はいろいろと身の回りが動くので心身ともバランスを崩さないようにがんばりたいなと思います.去年は珍しく(?)風邪やらインフルエンザやらに倒れなかったので今年も,そのままなんとか.
このブログではといえば,相変わらずいろんなことをとりとめもなく書き連ねていくんだろうなぁと予想していますが,本年もどうぞよろしく
最近は通勤の時に文庫を読むのが楽しみです.当初は「朝の東西線とか無理だわ」と思っていたものの,こういう時間ができるという意味では,通勤もわりと良いもんですね.ちなみにiPod touchのi文庫で青空文庫に収録されているものを片っ端から読んでいます.ここしばらくは夏目漱石月間になっていて,『こころ』や『明暗』など暗い話ばかり続けて読んでいたのですが,さすがにきつくなってきたので『吾輩は猫である』を読みつつ行き帰りしています.そうすると次のような辺り,たとえば:
などなどの逸話をちりばめてちょいちょいわらかしにくるので,その辺りにさしかかるたびにニヤニヤしています.そうしてニヤニヤしていると周りからは変な目で見られるものだからこれが非常に悩ましい.変な目で見られるのがというよりは声を出して笑いたいところを我慢するのが,ですけれども.
rad89.comで紹介されている,メモ帳代わりに使えるバッチファイルをWindows PowerShell(以下PS)に移植してみたので簡単な解説とスクリプトファイルの公開をしてみるよ,というエントリです.
f.batはリンク先の解説にもあるように簡単なコマンドでデータベースを作ることができるバッチファイルで以前から愛用しています.PS環境でももちろん使えますが,PSはいろいろなことができる言語なのでswitchでの制御構文の勉強をかねて,f.batの移植を思い立ちました.PSの詳細については後掲の参考サイトを見ていただくとして,早速作ったものの解説に移ります.
Windows7ではタスクバーの仕様(機能)に変更があって,Macで言うところのDock的なものにかなり近くなってい(ると個人的には感じてい)ます.最初から登録されているものにエクスプローラを起動するものがありますが,初期状態だとライブラリ(これも新しい機能)が開くようになっています.ただ直接マイコンピュータやマイドキュメントが開くようにしたい場合には,一度ライブラリが開いてしまうので2アクション必要になってしまい,面倒に感じました.そこで,タスクバーに登録してあるエクスプローラをクリックしたときに開くロケーションを変更するにはどうすればいいかを調べてみました.詳細は以下から.
先週末に数人で飲みに行った先のお店でのこと.有線のチャンネルが懐メロに合わせられていたようで,歌を肴に懐かしがりながら楽しい時間を過ごした.少女Aなんて久しぶりにきいたなぁ.タイトルの案山子はもちろん,さだまさし氏による1977年の名曲.田んぼにぽつんと立っている案山子を,都会にいる弟に重ねて語りかける歌詞は,どちらかというと詩のような郷愁と美しさを感じさせる(関係ないけどこういう風に思う自分は「あぁ,日本人なのだなぁ」と思ったりする).自分自身はこの歌と同時代を過ごしていないからそれほど深い思い入れはないのだけれど,歌を聴きながら思い出していたことがある.
もう10年近く前になるけれども,県外への就職で初めて親元を離れることになった友達の引越を手伝いに行ったことがあった.たしか3月の半ばころだったろうか,もうすでに春を感じられるようになったころで雪も消えていたけれど,風が少し肌寒かった.連れだって出かけたのはその友達,私,そして友達のお母さん.目的地に向かうその道の途中,カーラジオから流れてきたのがこの歌だった.たしか中年くらいのおじさんからのリクエストで,昔自分が郷里を離れることになったころを思い出してのことだったように記憶している.
このくらい書いてしまうとだいたいさっしはつくかもしれない.そう,友達とそのお母さんはこの曲を聴くうちに涙が頬を伝っていた.しゃくり上げるような泣き方ではなくて,静かに,でも目を真っ赤にして涙を流しているのがバックミラー越しに見えたのがとても印象に残っている.私はといえば,後ろの席からその様子を見ていて,何か声をかけようとしたのだけれどなんと言っていいかわからず,結局窓の外を見ながら黙っていた.その時は少しの気まずさを感じていたけど,今から考えると他人が入ってはいけない親子のやりとりに闖入してしまったような,そんな気まずさだったのかもしれない.だからたぶん,黙っていたのはそれでよかったのだなと思う.
今期の大学院ゼミでは共同研究プロジェクトとして文字化のことを考えることになる.第1回の昨日はいくつかの文字化の例を紹介したり,それぞれにストレスのあるところを出し合いながら問題意識を共有するところから始まった.研究室の人たちはみんな会話なりインタビューなり,なんらかの場面を対象にして研究をしている人たちなので,それぞれに違う悩みだったり着眼点があっておもしろい.
私自身はといえば,研究が手話を使った場面の分析であることもあって,こんなことが気になっている.それは音声言語の場合であっても音声だけを文字化すればいいのか?他に文字化する必要があるとすればそれはどんな情報なのか?ということ.例えば教室での授業の様子を文字化する,ということを考えると,先生が見回りながら学生に声をかけていたり,学生をあてるときには視線やジェスチャを使っていたりする.授業そっちのけで内職をしている学生がいたり,外を見て黄昏れている学生がいるかもしれない.そういう活動が総体として教室であることを作り上げているのだとすれば,教室内に飛び交う音声情報だけを拾っても意味がない.もちろん何でもかんでも文字化すれば良い訳ではなくて,分析のための文字化だとか,情報提示のための文字化だとか,統計処理のための文字化だとか,いろいろな手法が考えられるはずだけれど,その中の最適解にたどり着くにはどういうことを見る必要があるかに注意を払おうといつも思っている.
とはいえ一番大事なのは,文字化をどうすればよいかという問題ではなく,場面を記述するというのはどういうことかを考えることなのだろうと思う.それは間違いなく分析・研究に直結していると思うから.
Windowsの次世代シェルであるPowershell,今までのコマンドプロンプトと比べるとかなりいろいろなことができるようになっているので自分用に簡単なスクリプトを書いてよく使っています.関連情報を扱うウェブサイトやライブラリも増えつつあります.
Powershellでは起動時にいろいろな関数や変数を記述したプロファイルを読み込むことができるようになっているのですが,最近OSをVista x64に変更したところ,LaunchyなどからPowershellを呼び出すとどうやってもプロファイルが読み込めません.一方でスタートメニューからプログラムをたどるか,「ファイル名を指定して実行」からpowershellと入力して起動すると普通に読み込めます.スクリプトの実行ポリシーを確認してみると前者の場合に限り,何度やってもRestrictedから変更できません.なぜだろうといろいろ試してみたところ解決できたのでメモをかねてエントリします.環境は以下の通り.
私の所属している研究室のプロジェクトとして言語管理理論を使った論文のリストというのをずっと前から作っているのですが,今期のゼミでは2006年あたりから2008年までの論文をまとめています.いろいろと探していたら見つけたのが以下の書籍.出版は2009年4月なのでつい最近のものです.
Spolskyが考えていることを大まかにまとめると,個人が様々な場面(e.g. 家庭,職場,パーティ etc.)でどんな言語使用をするのか,という言語選択に関わること.彼はそのことをLanguage Policyと呼んでいます.またそういった言語選択に関わる要素として「観察可能な言語使用(language practices)」「個々人が持つ言語に対する価値判断(language briefs)」「言語使用と価値判断を更新すること(language management)」の3つを挙げ,モデル理論を構築しようとしています.
展開されている議論についてはひとまずおいておくとして,個人的に気になったのはLanguage Managementという用語の解釈を間違えている(あるいは誤用していると思われる)こと.イントロダクションで言語管理理論の主要論文を参照しつつ話が進んでいくことからもわかるように,LMという用語はSpolsky独自のものではなく,1960年代(さらにさかのぼればポストモダン以前)からのLanguage Policy,Language Planningの議論を批判的に発展させてきた言語管理理論(Language Management Theory)(Neustupný 1994)によるもの.言語管理理論は言語問題を扱うフレームワークの1つで,ミクロからマクロまでの幅広い範囲を射程に収めつつ,問題の処理をプロセスとして体系的に記述し分析することを可能にしていますが,キモは言語問題を処理するプロセスに注目した概念だということだと理解しています.したがってマクロな政策の問題だけでなく,個人的な談話に現れる様々な言語問題処理(e.g. コード・スイッチ,フォリナー・トーク,聞き返し,不満の表明,意見の不一致など),さらにはそれらが表層に現れるまでの背景を統一的な枠組で捉えることができるわけです.
一方でSpolskyが考えているLMは言語選択に関わる段階ないし要素の1つ(言語管理理論との対応をとれば調整の段階)と考えられるため,残念ながらプロセスとしてのLMを矮小化してしまっています.つまりSpolskyが考えている言語選択の問題はLMTのプロセスに「含まれている」はずなのですが,そこを看過してしまったために「言語使用と価値判断を更新する」という調整のプロダクト研究になっているように感じました.
なので,もう少し丁寧に解釈したほうがよかったんじゃないだろうか,そのほうが広がりのある議論になったんじゃないだろうかという感想です.
6月最後の勉強会では,つい先頃でた本,『移民時代の言語教育―言語政策のフロンティア1』の中から,ネウストプニーの「二十一世紀に向けての言語政策の理論と実践」を読んでみました.今まであまり強くは意識していなかったことがかなりはっきりと指摘されていて,9年も前に書かれた(1)とは思われないほど新鮮な読後感でした.
面白かったのは言語管理に関わる主体を捉え,記述していくのに必要なキーワードに参加者が抱えているインタレスト(関心,利害関係)や志向,どんな権力を支持しているのかを見る必要があるということをはっきり示していたこと.このことは,誰が,どんな意図で,どんなことを,どのように実行しようとしているのか,またそれはどんな支持基盤を持っていて,誰に向けてなされようとしていることなのかを考える必要がある,ということだと理解しました.言語管理理論では,言語問題の処理を「逸脱」「留意」「評価」「計画」「遂行」5つのステージからなる言語管理プロセスとして捉えています.5つのステージはそれぞれがもちろんキーワードの1つであって盛んに研究されているわけですが,個人的には,自分の研究や思考の中で前述のインタレスト
を(意識していなかったわけではないのですが,)キーワードとしては認識していなかったような気がしています.
一旦このことを認識してみると,言語政策も「共生」と同じように1つの言葉でしかなく,実態は多様に異なっていることが改めて理解されるように思います.一方で,そういった多様さを損なわないように留意する必要はあるとしても,言語管理の理論はある統一的な枠組で問題を考えることができる可能性を持っていることも,非常に面白いところです.
「共生」ということを考えるのに言語管理の理論が有効だということを再認識できたのは大きな収穫だったように思います.